BLOG & INFO

ブログ

御汲湯(おくみゆ)の文化は誰が作った?

みなさん、御汲湯(おくみゆ)という言葉を聞いた事はありますでしょうか?
別名では献上湯(けんじょうゆ)とも言います。

様々な温泉の歴史を辿っていくと、たくさんの歴史上の人物が温泉をこよなく愛していた事がわかると思いますが、そのうちの有名な武将の1人である徳川家康が御汲湯の火付け役になると言われています。

このように言われる背景として、徳川家康自身が好んで良く足を運んでいた熱海温泉を1604年9月に京都で療養中であった吉川広家のお見舞いに運ばせた事があり、この温泉を別の場所に運ぶという徳川家康の行為がその後の御汲湯の原点であると考えられています。(素敵な思いやりですね。)

正式に御汲湯の始まりと言われているのは、4代将軍の徳川家綱が御汲湯のルールを設けて定期的に熱海から江戸城まで村から村へのリレー形式で運ばせた事から言われていますが、その前の3代将軍の徳川家光も既に伊東市内の温泉(和田の湯)を船を使って江戸城まで運ばせていたと言われており、徳川家康のアイデアは既に取り入れられているわけですね。

ちなみに、4代将軍の徳川家綱が設けたと言われている御汲湯のルールには以下のような事が取り決められていたと言われています。

・幕府が派遣した御湯樽奉行の仕切りによって行うこと
・湯戸(ゆこ)と呼ばれる湯宿主たちが紋服・袴をつけ長柄の桧柄杓で御湯を汲み、二つの御湯樽へ移すこと
・御湯樽は新しい檜の樽を使用すること
・二つの御湯樽がいっぱいになると、樽に封印が貼られる
・担ぎ手たちも月代(さかやき)をきちんとするなど身なりを清潔にすること
・御湯樽は決して地面に置かず、樽に貼った封印が切れないように運ぶこと

実際に御湯樽を運搬していたのはその村々から集められた頑強な担ぎ手たちだと言われていますが、リレー形式とは言え、熱海から江戸城までの28里(およそ108km)を一度も地面に置かずに御湯樽を担いで15時間程度で運んでいたと言われていますので、想像を絶する大変な作業ですよね。
しかも、その担ぎ手たちの頑張りのおかげで、江戸城に着く頃の湯加減がちょうど入浴に適した温度で届いていたと言われています。

この御汲湯は、その後の歴代徳川将軍にも受け継がれて行くのですが、8代将軍の徳川吉宗は8年間で3,643個の御湯樽を熱海から運ばせたとも言われており、かなりの温泉好きだった事はわかりますが、熱海温泉だけではなく草津温泉も江戸城に運ばせていました。

そして、草津温泉と言えば湯畑が有名ですが、その湯畑の源泉の中にある木の枠(湯枠)の中の湯を「御汲上の湯」と呼んでおり、8代将軍の徳川吉宗や10代将軍の徳川家治がこの湯枠の温泉を樽詰めにして江戸城に運ばせていたようです。

 
※昼の湯枠と夜の湯枠

(近年、文献により徳川家康が豊臣秀吉に勧められて草津温泉を江戸城に運ばせていたという事もわかったようです。)

草津は熱海と比べても江戸城との距離は遠いですし、アップダウンの激しい山道も多そうですので、更に大変そうです。

このようにかなりの人力を費やして御汲湯を実現し温泉を楽しんでいたんですね。
でも、普段将軍は江戸にいないといけなかった日が多かったでしょうから、御汲湯をお願いしたくなる気持ちもわからなくはないですよね。(笑)

では、最後になりますが、当社が運営している温泉WAKUWAKUはこの御汲湯文化の”現代版御汲湯”として、温泉好きの方々に対してや、徳川家康が吉川広家に贈ったように大切な人への贈り物として、たくさんの方々に喜んでいただけるサービスになれればと思っていますので、今後ともよろしくお願い致します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

プライバシーポリシー / 特定商取引法に基づく表記

Copyright © 2023 株式会社パルクム All rights Reserved.